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「遺憾」とは、これ如何(いかん)?

投稿日:2010,03,08

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 日本の政治家独特の用語に、「遺憾に思う」というのがある。

 例えば、北教組の違法政治献金問題が明らかになり、渦中の小林千代美議員が、「遺憾に思います」と、記者の質問に答えている。

 鳩山首相も又、この問題に関して、「遺憾に思う」旨の発言をしている。

ところで読者のみなさん、「遺憾」という言葉の意味を正確にご存知でしょうか?

日本で最も権威ある辞書と言われる(私はそう思っていないが…)広辞苑は、
「遺憾」を以下のように定義しています。


【遺憾: 思い通りにいかず心残りなこと。残念。気の毒。】


また、講談社の日本語大辞典によれば、以下のようになっています。
【遺憾: 1.心残り、残念。 用例「遺憾に思う」
     2.気の毒。    用例「事故の責任者として、遺憾の意を表する」】

           
 つまり、北教組の違法事件に関して、小林議員も、鳩山首相も
「思い通りにいかず、残念です」
と、言っているに過ぎないのです。

ここには、謝罪や反省の意味は全く含まれていないのですね。

小林議員からいえば恐らく、「不正行為を隠ぺいして巧い事やるつもりだったが、思い通りにいかず、誠に残念です」
と、言っているに等しいわけです。

詭弁を用いるならば、「公明な選挙をやるつもりだったが、思い通りにいかず、逮捕者までだして、誠に残念です。」
という意味だと、強弁出来ない事もない。

ここまで来ると、詭弁術ですな。(笑)


もう一つの可能性は、講談社の日本語大辞典の第2の方の意味ですね。
そうすると、小林議員が言っているのは、恐らく
「(逮捕された仲間が)気の毒です。」
という意味になるのでしょうね。

 あるいは、最大限、好意的に解釈すれば、
「(国民が)気の毒だ」(笑)という意味にならないこともない。w

いずれにしろ、反省と国民に対する謝罪の意味は全くないと解するのが、正しい日本語の解釈でしょう。

自民党の政治家も、大昔から、何か不祥事が起こると、「遺憾、遺憾」を繰り返してきました。

誠に国民を愚弄にした言い草ではありませんか?

彼らは単に、「思い通りにいかず、残念だ」と言い続けていたわけです。

私は、こういった状況を、「遺憾」とは思いません。

日本の政治家から、遺憾という言葉を追放すべきですね!

反省は反省、謝罪は謝罪と明言すべきです。
大体、言葉の意味も知らずに、しゃべる政治家が多すぎます。

たまには、辞書くらい、ひいたらどでしょうね…。



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アメリカに大統領はいない―アバターとしてのオバマ大統領

投稿日:2010,01,18


オバマ大統領は、アメリカの歴代大統領の中でも、極めて「軽い」大統領である。

obama-mug.jpg

オバマの映像を見る度に、彼のスピーチを聴く度に、彼が如何に「軽量級」であるかを実感してきた。

しかし、彼は単に軽い大統領なのではない、という事にはたと気がついた。

今や、アメリカに本当の大統領はいないのである。
オバマは、「大統領のスポークスマン(広報官)」に過ぎない。
つまり、大統領スポークスマンが、大統領の代行、もしくは代理をしているのが現在のアメリカ政治の実情なのである。

つまり、ホワイトハウスに真の主人公は存在していないのだ。
このような視点から見た時に初めて、オバマ政権というものの本質がよく見えてきた。

共産主義政権風に言うならば、現在のホワイトハウスは「集団指導体制」である。
その集団指導体制の中で、表に出てスポークスマンの役割を果たしているのが、バラク・フセイン・オバマ・ジュニア氏である。
ひとえに、演説の巧みさにより、彼はこのスポークスマン役を割り当てられたに過ぎない。

如何なる政権と言えども、近年はみな、チーム体制であり、ホワイトハウスの機能が役割分担によって成立してきた事は確かである。
レーガン政権は即ち、レーガン・チームの事であったし、ブッシュ・ジュニア政権は、ブッシュ・ジュニア・チームによって支えられていた。
それが今回は、オバマ・チームになっただけ、と考えるとそれは誤りである。

レーガン・チームにおいては、レーガンの存在価値は圧倒的であった。
やはり、彼の思想と人格がモノを言っていた。
比較的軽量政権であったブッシュ・ジュニア政権ですら、重要な最終判断は、大統領自身が行っていたし、大統領個人が最終的な政策決定者であるという実感を国民もまた持っていた。

しかし、オバマ政権はこれとは全く異なる。

大事な政策は、全て集団指導体制により決定され、オバマはそのメッセージを国民に伝える伝達役に過ぎない。
彼は「大統領」の役職を演じている人物に過ぎないのである。

アバターという映画が大ヒットしているが、アバターとは、「化身」という意味である。
本物が存在し、それに対する偽物、代理としてのAVATARが存在する。
NET上では、既に電子上のアイコンとしての「アバター」という用語が使われて久しい。
また、最新のアメリカ映画のタイトルに、「サロゲート」というのがある。(日本では1月22日公開)

surrogate.jpg
このサロゲート(surrogate)というのは、「代理人」という意味である。

インターネットの世界は、アバターであり、サロゲートの時代なのであろう。
映画でいえば、「マトリックス」以来、現実の世界よりも、バーチャル・リアリズムの世界が優位にあるという倒錯した世界観がしばしばテーマになってきている。
インターネット社会が現実から引き離された仮想空間を創っている事への人間の恐怖感の表れであろう。

この点でも、オバマ大統領は初代のインターネット大統領であり、アバター大統領なのでもある。

英語のアクティング・Actingという言葉には、主に2つの意味がある。
「俳優として、ある役を演ずる」という意味(だから俳優の事をActor、Actoressという)と、
「代理役を務める」という意味である。

どちらの場合も、自分が本来そうではないものの役割を演ずるという意味である。

オバマ氏は、「大統領の役を演じている」、そして「大統領の代理役を務めている」人物に他ならない。

彼が、重大な争点の最終的な決断者でない事は確かである。



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【イベント・講演会等のお知らせ】

1) 2010年1月20日 藤井厳喜・単独講演

  第423回 正論を聞く集い 「東アジア大乱の年」
 アジア無制限戦争・最前線!そして最新のアジア情勢について詳しく語ります。

  日時 : 平成22年1月20日(水) 18時30分?20時30分
  場所 : 大手町サンケイプラザ 3階
地下鉄東京メトロ・都営各線「大手町」駅下車 A4・E1出口直結
  登壇 : 藤井厳喜(国際問題アナリスト)
  参加費: 一般 1,500円 学生 1,000円
  主催:  正論の会 TEL 03-3505-6585


2) 2010年1月31日 CFG主催・第3回シンポジウム 【新春特別企画―完全無料】
  「2010年・政治経済展望 ―政局最前線から、今後の経済予想まで」

  日時: 平成22年1月31日午後から、配信開始
  場所:
 (今回は、行事が多数続く為、特別にインターネットでの完全公開スタイルと、変更させて頂きました)
 詳細は、1月31日の本ブログ http://www.gemki-fujii.com/blog/ をご覧ください。
 映像と共に、完全フォローアップを予定しております。
  登壇: 藤井厳喜(国際問題アナリスト・CFG代表)
      山村明義(ジャーナリスト・CFGアソシエイツ)

 配信元のYouTubeアドレスは、
★ 【 Cambridge Forcust Group of Japan.Co 藤井厳喜チャンネル】
   http://www.youtube.com/user/zingrace1213 (登録自由)
 より、全篇、完全公開

 一人でも多くの方に、確実に知って頂きたい重要なメッセージを配信したい為、 今回は新春特別企画と致しまして、全篇完全無料で、公開させて頂くスタイルを取らさせて頂きます。
 是非、一人でも多くの方に、このNET上でのイベントと、その内容について、拡散ください。

 参考: 前回の様子(イメージ映像)
◎ CFG第2回シンポジウム「アジア無制限戦争2.0!情報戦争最前線」御報告[桜H21/12/11]
 http://www.youtube.com/watch?v=9o2Q9BUauCU










映画評論「アバター」AVATAR (1) 内容篇-ストーリー分析

投稿日:2009,12,29


12月のクリスマス・シーズンに向けて公開された人気映画「アバター」Avatar を観る。




ストーリーは単純。
22世紀の地球、某惑星に算出する貴重な鉱物資源“アンオブタニウム”を採掘する為に人類が進出。
ところがこの星には、「未開」の人類に似た知的生物が住んでおり、この“ナヴィ”と呼ぶ「未開土人」を追放しない限り、この資源開発は難しい。
 そこで主人公のアメリカ人男性(元海兵隊員)は「未開土人=宇宙人“ナヴィ”」と地球人のDNAを遺伝子操作によって合成し、作り出されたハイブリッドの肉体「アバター」を与えられ、彼らの内情を探る為に潜入する。

しかし、主人公には自然破壊と住民殺害の下に行われる資源開発に反対するようになり、最後は先住民(宇宙人)“ナヴィ”の反乱軍のリーダーとして、開発企業の軍隊を打ち破り、人類を惑星から追放するというシナリオである。

avatar_screen1.jpg



全体はSF仕立てだが、映画の内包するメタファーを指摘する事は簡単だ。

宇宙人=未開人=低開発の原住民=前近代=エコロジーの体現者=善

開発業者=先進国の多国籍企業=近代=エコロジーの破壊者=悪

 こうとらえると、この映画の構造とメッセージは極めて単純である。
つまり、「資源を開発する拝金主義者よりも、大自然と供に生きる原住民の方が素晴らしい」という事だ。
 例えて言えば、アメリカン・インディアンが、西洋白人の北米大陸開発(=侵略=植民)を防いでしまう、というような話である。

単純な「勧善懲悪」と善悪二元の映画でもある。

 現実には多国籍企業と、それと組んだ原住民の一部が勝利する事が多いのであろう。

 こういった「開発vs土着」の対立は、様々な文明の様々な局面で繰り返されてきた。
我々が眼前にしている減少だけが全てではないのである。


 私は自分を「縄文人」の生き残りのように感じているが、「弥生vs縄文」の文明間の闘いも、今述べたような文脈で考える事が出来るだろう。

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弥生文明に亡ぼされた縄文人の生き残りが、今も日本列島には生息し続けているのである。

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 注目すべきは、この映画では、「低開発国の土着文化」が「大自然と調和して生きるエコロジーの生活」として、肯定的に捉えられている点である。



アメリカ映画の「第三世界(低開発諸国)観」は過去30年間で大きく変化し、肯定的なものになってきている。

 1979年公開の「エイリアン」では、第三世界は、宇宙を地球を侵略する、残虐で奇怪な怪獣として描かれていた。
(私見では、エイリアンはホメイニ革命を象徴している。)

 インディー・ジョーンズ・シリーズでも、第三世界は、暗黒の存在であり、啓蒙されるべき存在である。
ジョーンズ博士こそが輝かしき「ミスター近代」、「ミスター先進国」なのである。

 「アバター」では価値観は逆転している。
一言でいえば、アメリカと第三世界の関係は過去30年間にこれだけ変化したのである。

 かつて第三世界(低開発諸国)は、アメリカにとっては、嫌悪すべき、出来たら避けて通りたい、理解不能の、いざという時は力で制圧すべき存在だった。
それが、ともかくも共生しなければならない存在と認識されるようにはなっている。

経済的必然として、アメリカは第三世界の資源を、市場を必要としているのである。


(明日は、この映画のコンテンツ産業史、映画産業というビジネスの観点からもう少し述べてみたいと思う。)

海外出張期間、私への連絡が、取りにくい事になりますが、以下のアドレスにご連絡を頂ければ、必ず情報はチェックしておりますので、宜しくお願い申し上げます。

ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ事務局e-mail : info.cfg.future@gmail.com









いかにも危うい日本 ― 太平洋を隔て今、想う

投稿日:2009,12,28


久しぶりで太平洋を隔てて日本を見てると、いかにも日本の危(あや)うさがよく見えてくる。
2008年9月以来、世界経済は構造不況に入っている。
どの国も、どの企業も、どの個人も生き延びることに必死である。
はっきり言えば、国家レベルでは、他国を犠牲にしても自国が生き延び、繁栄することが当然の国家目標である。
どの国の国家指導者も皆そう考えている。

それは何も、昨日、今日、始まったことではない。
国家というものが、地上に誕生して以来、繰り返されてきた歴史である。
「友愛外交」は即ち「亡国外交」に他ならない。


最近の嬉しいニュ―スは、コペンハーゲンでCOP15が失敗したことだ。
シナを筆類に低開発国が反対して「合意」を潰してくれたのは、有難いことだった。
日本はとんでもない自縄自縛に陥るところだった。
こういう時は、シナに悪役を演じてもらうに限る。
日本は全く他力本願の好運で、大失敗を回避できたわけである。
しかし、こういう好運は何度も期待できるものではない。


どの国も、鎧に身を個め、兜(かぶと)の緒を引き締めて苦難の時に向かっている。
日本は普段着の丸腰で、鉄砲玉の飛び交う戦場に出てゆこうとしている。

しかも国内を見れば、売国を政策の基本とする政党が政権与党である。

2009-12-23sibuyahatiko069.jpg

日本人の「生活第一」はどこへいったのだ?。

民主党の小沢一郎幹事長は、憲法の基本である「天皇に関する条文」さえ理解していない無知無学の徒で、しかも権力欲だけは旺盛である。
亡国の条件は、真に見事に揃ったという可きであろう。

2009-12-23sibuyahatiko%20065.jpg

 日本を離れて、より見えてくる事がある。
感じられる事がある。

 それらをまた発信したいと思う。



 日本では本日、『反日マスコミの真実2010 ―日本を壊す、言論統制と情報封殺システム―(OAK MOOK 327 撃論ムック) (単行本) 』が届いたという、連絡がありました。
早速、見た人達から「非常に充実した特集である」という声を聞き、楽しみにしています。
私も、書いておりますので、是非、『NHK捏造事件と無制限戦争の時代』と合わせて御覧ください。






『イチローと村上春樹は、いつビートルズを聴いたのか―サブカルチャーから見た戦後日本』

投稿日:2009,12,09

同世代の二人が語る、軽妙洒脱な戦後文化論である。

西村幸祐さんが、昭和27年生まれで、杉原さんが昭和26年生まれ。
私は昭和27年生まれであり、全くの同世代なので、共感する部分も多く、本書は一気に読み終わってしまった。

特に、昭和26、7年プラスマイナス5年に産まれた人々には、お薦めしたい好著である。

私は、村上春喜は全く読んでいないし、小説全般に興味が無いので、その部分はやや迂遠に感じた。
しかし、様々な文化現象を同時代に体験しているので、二人の論の展開が、クラス会での会話のように面白くまた、懐かしいものに感じられた。

ただ、二人とも文化現象を見るに際しての冷徹な眼力があり、POPカルチャーを論じても、単なる時の風俗論や思い出話に流されない内容がある。
例えば、アメリカの音楽が世界的に流行るのは、アメリカの軍事力・経済力が強大であるからで、ヒッピー文化の「ラブ&ピース」と言えどもその例外ではない、と論じるあたりなど、中々に硬派の議論である。
杉原さんは、グローバルに売れる大衆文化になる為には、とにかく先ずアメリカで受容されなければ不可能である、と力説している。
冷徹なレアリズムである。

一つだけ、体験的な話題に触れるとすれば、ビートルズの日本公演の記憶があげられる。
ビートルズの日本公演をどのように受け止めたか、という事はおそらく我々の世代のものには一つの大きなメルクマールになるはずである。

西村さんも杉原さんもそれぞれに、ビートルズに憧れ、興奮してその来日を歓迎したようだ。
私は、全く逆で、ビートルズの如き、軽佻浮薄な音楽グループは、日本などに来て欲しくない、と只管に忌み嫌っていた記憶がある。
当時、フランスは、予想される過度の混乱を嫌って、ビートルズの来演を拒否した事がある。
当時のうるさ型の評論家である小濱利得氏と細川隆元氏は、二人の出演する日曜日・朝の『時事放談』で、ビートルズの来日など、拒否すべきではないか、と憎まれ口を聞いて若い人から散々に嫌われていた。
『時事放談』のファンであった私は、この二人のご老人の意見に全く同感であった。

同世代と言っても、これほどに立場や感受性は違っていたわけである。
しかし、ビートルズ来日にどのように反応したかは、その人のその後の人生にもある一定の影響を与える出来事であったに違いない。

ちなみに、私は八年間のアメリカ留学時代にカセット・テープで持って行った古典落語や、廣澤虎造の浪曲や、三波春夫の長編歌謡浪曲を只管、聞きまくっていた。



それが私の大衆文化的感受性の根幹の一部を成している事は確かである。

この本、『イチローと村上春樹は、いつビートルズを聴いたのか――サブカルチャーから見た戦後日本』を読んで、西村幸祐さんと文化的現象についての、そして体験談についての対談をしたくなった。

やがて、機会を見て是非実現をさせたいと思っている。

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ちなみに、この本の表紙は、青一色で、こんなにユニークでオシャレな本の装丁を見たのは初めてである。













「結婚詐欺殺人事件」と無制限戦争2.0(2)―無制限戦争の2重構造

投稿日:2009,11,05


「木嶋佳苗・結婚詐欺事件」を無制限戦争という視点から分析すると、そこには情報操作を中心とする無制限戦争の2重構造が浮かび上がってくる。

第一は、無責任なマスメディアと利益至上主義の企業が、消費者一般に向けて展開している「無制限戦争的情報操作」である。

木嶋佳苗は(90年代前半までのトレンディ・ドラマの世界観や女性FASHION雑誌を中心とする)メディアを中心とする幻想のセレブ生活を現実と勘違いしてしまった人間なのである。
この点においては、彼女は無制限戦争を仕掛けられる側であり、情報戦争の犠牲者であったとも言える。

このシリーズの第1回目でも指摘したように、確かに彼女の「Tokyo」に対する勘違い幻想は決定的なものであった

彼女の高校の卒業文集を見ればそれは明らかである。
kanae.bunsyu1.jpg

特に、「やっぱりTokyoはすごいと思う。ありとあらゆる楽しみがいたるところに散りばめられている。
いろんな情報をしっかりキャッチして、自分が楽しめる方法を楽しめる方法を見つけられたなら、Tokyoは、いつもドキドキ興奮し続けられる街。
という言葉に注目したい。

地方からの若い上京者が東京に抱く典型的な幻想がここにある。


第二の無制限戦争は、木嶋佳苗が結婚願望を抱く男たちに仕掛けた「詐欺師としての無制限戦争」である。
ここでも詐欺師の本性から言って、全てはカネを巻き上げる為の「情報操作」であった。

彼女は情報操作によって、与えられた幻想を現実にする為に制限のない情報操作によって、その目的を完遂しようとしたのである。
そして彼女の言葉でいうならば、「いろんな情報をしっかりキャッチして、自分が楽しめる方法」とは、インターネットであり、女性FASHION雑誌等のセレブ情報誌であったのだろう。

そして、自分が楽しめる方法の為には、厖大な金銭が必要であり、「それを確保する方法」が結婚詐欺だったのであろう。

それにしても、ここ数年、不景気で、消費が息詰まる中、一貫して女性のセレブ幻想と過剰消費を煽る為のストーリー作りが極めて巧妙に、マスメディアを通じて展開され続けて来た。


一例を取り上げよう。
例えば「お人形EYES」「りかちゃん人形のようなパッチリ目」というのがブームが人為的に造られた事があった。
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過剰なまでの初期の「マスカラ・ブーム」現象と「パッチリ目」競争現象である)
pattirime.jpg

初めの段階では、巧妙な概念操作、情報操作が行なわれる。
所謂、「パッチリ目」こそが美の基準であり、人気者や成功の必要条件であり、女性にとっての幸福の絶対条件であるというような洗脳工作が行なわれる。
それが同時期に発刊される、殆どあらゆる情報誌、各種女性雑誌で、あたかも新しい世界観のように揃って宣伝されるのである。
supermasukara.jpg

それによって、多くの女性達の心理は完全にマインド・コントロールされてしまう。
一方で、「パッチリ目」をつくりだす為の美容整形やら、化粧品やら、FASHIONやらの様々な商品を提供する準備(開発等)が着々と進められている。
この場合、外国に弱い日本人の心理を利用して、アメリカ、特にハリウッドやビバリー・ヒルズでどんなオシャレが流行しているかという情報が巧みに操作される事になる。
パッチリ目でいえば、最初は新しい「マスカラ」に関わる化粧品メーカーの開発競争、エステ美容業界では「植えまつ毛」が、美容整形外科の業界や輸入業者の間では「日本国内未発売のまつげ育毛剤の新薬」、「女性ホルモン」系の薬、が盛んに宣伝され、紙面に躍る。
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そして理想のパッチリ目に変身し成功した女性の実話ストーリーが、憧れを呼ぶように派手に宣伝される。
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これでブームの仕掛けは完成し、新しい1つの「市場」が誕生する事になる。

ちなみに実際に起きたこの「パッチリ目」ブームの末路は、哀れなものであった。
実際に、「日本国内未発売のまつげ育毛剤の新薬」を大量に長期間使い続けた人達の中から、目の病気(特に緑内障)を発症するものが出現し、酷い場合は突然失明する被害者まで続出した。
matuge.ikumouzai.jpg

(※ 特に問題になったのは、当時、ブームでよく売れたとされるアメリカ製のJan Marini Skin Research, Inc. ジャンマリーニ・スキン・リサーチ社製造の美容液「Age Intervention Eyelash」という商品に含まれていた成分、「Bimatoprost」(ビマトプロスト)は、緑内障の眼圧を下げる治療薬として使われている成分であるが、視神経を侵し、失明に到る可能性があるものであった。

しかし、マスコミ(特に地上波)はこの被害状況を殆ど取り上げなかった。
特にブームを煽っていたメディアは社会的責任を放棄し、この事を全く報道せずに完全に無視を続けた。

本来、テレビのワイドショーなどには格好のネタのはずであるが、全くワイドショーが取上げる事は無かった。(私の知る限り)
一部の週刊誌が少し報道した事はあっただけのように記憶している。
(それ以降、数としては関係同業種の別の商品の広告が、より安全性PRをした広告の方を「差別化」のように盛んに載せられるようになり、現在に至っている。)

常識的に言えば、これらの被害状況をマスコミが正確に報道すれば、この異常なパッチリ目ブームは終焉に向かうはずである。

ところが現実には、そうはならなかったし、未だにそうなってはいない。
一度、確立された市場は、これらの被害を無視しながら、形を若干変えながらも存続し続けているのである。

ということは、恐らくコンスタントに新しい被害者を生み続けているはずである。

マスメディアは何故、被害の実態を報道しないのか?
答えは簡単であり、マスメディアもまた、この市場の恩恵に預かっているからである。
市場の広告主の声が有力である限り、マスメディアは絶対にこの事を公には報道しない。

男性がこういった愚かな市場の外にいると思ったら大間違いである。
男性向け美容の第一の市場は、育毛市場である。
次にバイアグラに代表されるような、合法的な性的興奮剤があげられる。

「無制限戦争2.0」の時代である現代においては、消費者は情報操作により、無理に無理を重ねて過剰消費を強いられるが、この「過剰消費」が健康を促進するどころか、寧ろ自らの健康や安全を破壊する結果となるのである。
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まことにバカバカしいという他はないが、無制限戦争的にマインド・コントロールされた者にとっては、これ以外の選択肢はないように思えてしまうのである。

次回は、無制限戦争的、過剰消費が健康を害するのみならず、人生そのものを破壊する場合が往々にしてある事を指摘したいと思う。





オバマを笑い飛ばすアメリカの草の根保守、そして日本は?

投稿日:2009,10,12

日本のマスコミを見ていると、全く分からない事だが、アメリカの真っ当な愛国者の多くは、オバマ政権のいい加減さにへきへきしているし、オバマのノーベル平和賞受賞には口を開いてモノも言えないといった人達が多い。
口を閉じて何も言わないのでは抗議にはならないので、アメリカの信念ある愛国者達は、ユーモアとウィットを込めたオバマへの批判を様々な形でインターネット上に展開している。

実に皆さん、芸達者でエンターテイメントとしても一流のものが多い。
今日は、その内のいくつかを紹介したい。

いずれもアメリカで大人気であり、話題のYouTube映像である。

第一は、ティム・ホーキンス(Tim Hawkins) の『 The Government Can 』という作品である。
元歌は日本ではサミー・デイビス・ジュニアの歌で、広く知られている『キャンディー・マン(キャンディー売り)』である。
オバマのばら撒き政策と、政府万能主義をからかい、おちょくった、実に楽しい、しかしその内容はシリアスな作品である。


Tim Hawkins - The Government Can 



先ず、出だしが面白い!
「ただで大学へ行きたいかい? エネルギー!? 住宅ローン? み-んな♪君にあげるよ♪ 
君の欲しいものは、何でもあげるよ-!♪ 
それは政府が全部、出来るんだ♪」
という何とも皮肉の利いたメッセージである。

しかし、同じような話は「日本の民主党」からも、聴こえてくる。
「大きな政府が全てを解決してくれる」そうである。
しかし、政府のお金はどこから来るのかなぁ?

それは税金しかない。
つまり!我々が働いて収める税金しか、政府の収入源はないのである。

よく考えてみれば、「大きな政府」とは「重い税金の事」ではないのかなぁ?
、という事に思い当たる。

こんな当たり前の真実を、如何にもアメリカ人らしいウィットに込めて、歌っているのが、この曲である。

思わず、一緒に口づさんでしまう程の、ホーキンスの歌の巧さである。
何とも、日本の民主党から選挙期間中に散々聴かされた「楽しい夢物語のようなお花畑選挙演説」に瓜二つの世界である。


今、アメリカでは、『キャンディー・マン』のメロディーに合わせて、オバマ大統領をからかう、そしてユーモラスに批判する類の替え歌の様々なバージョンが大人気の様である。

「オバマ・キャンディー・マン♪」の別のバージョンも紹介しておこう。

BOB&TOM TV: "Obama Man" by Greg Morton 
 

此方の方は、もうチョット、毒の少ない風刺という感じである。
でも、出だしが面白いなぁー。

今度はこんなセリフから始まる。
「やぁーみんなー!、
AIG♪、バンク・オブ・アメリカ♪、シティー・グループ♪、ファースト・ナショナル、ローンスター♪ (←みんな大手金融機関の名前)、
どれだけ欲しいんだい!? 10億ドル? 20億ドル? 30億ドル?
僕は君達のキャンディー・マンさぁ---♪(笑)」

というのである。

途中でこんなセリフもある。
「明日の収入を今日使うのは、それは“オバマ・マン”さぁ-♪」というのである。
“オバマ・マン”とは、日本語でいえば、「オバマ派」、もしくは「オバマ支持者」という程の意味である。


次に紹介するのは、アメリカ独立革命の英雄、トマス・ペインに扮した名優が、オバマ現大統領に語りかける言葉である。

アメリカ建国の原点から如何に今日のアメリカの政権が偏向してしまったかを、トマス・ペインに扮した名優が、迫真の演技で語りかける。

彼は言う、
「建国の父達は、墓の中で安眠も出来ずに、寝がえりをうって苦しんでいる事でしょう。」
「我々は今や、アメリカの終焉に直面しています。」
「議会や官僚制が、アメリカなのではなく、アメリカとは自分たち自身なのである」というアメリカの愛国者の力強い原点から肺腑を貫く熱情の言葉が溢れてきます。
正直言って、私は、この演説を繰り返し聴き、思わず、瞼が熱くなってくるのを抑える事が出来なかった。

アメリカ人の気質を知るものならば、この演説が如何に、名演説であるかを直ちに了解する事が出来るであろう。
そして、このトマス・ペイン役を最も勇敢に演じきった役者が、ロナルド・レーガン大統領であったとも言いうるであろう。


Open Letter to President Obama 



この「トマス・ペイン」がいう、「アメリカ建国の父達」という言葉は、明治維新を成し遂げた志士達の事だともいえるであろうが、私には寧ろ、「靖国神社に眠る英霊」と言い換えた方が現代の日本人には、より胸に迫るものがあると思う。

靖国神社の英霊達に向かって、恥ずかしくない日本を創るという事こそ、我々の至上の使命であると思う。
また、その事を思えば、あらゆる政治的問題に対する答えは自然に我々に与えられると思う。
そのような想いで、この映像を見ると、感動はひとしおである。

世界中の愛国者の語る言葉は、8割、9割、一致しているし、特に文明国においては、それは一層、正しい真実である。
リベラルなメディアの謀略に対抗する為には、世界中のそれぞれの国の愛国者や保守主義者が直接に理解し合い、出来得る限り団結する事が必要であると確信する。
私はそのような確信の下に、日米保守会議を創り、若干の活動を行なってきたのである。

ところで、この映像の名演説の最後の言葉がまた、素晴らしい! 
「Simplify, Mr. President. …Simplify! 」

 この言葉をシンプルな日本語に置き換える事は至難の業だ。
何と言ったらよいのだろうか…。
「一番、大事な事をやりなさい。一番大事なことだけを…!」と、でも訳せるだろうか。

「ごちゃごちゃした理屈っぽい、議論は止めて、アメリカ建国の原点に返ってくれ、そうすれば答えは簡単に見つかるはず」
そういうメッセージであると思う。

アメリカ民主党の言動は、日本の民主党のそれと、極めて類似している。
この演説を我々自身の問題として、受け止めてみたいと思う。

政府に全ての問題の解決を求めるのはナンセンスだ。
何故なら、政府とは、我々が創り上げる、我々が構成する、一機関に過ぎないからである。
官僚に任せるのではなく、政治家に任せるのでもなく、全ては我々自身が自らの手で解決しなければならないのだ。

政府とは、我々自身の事である。
政府に任せるという考え方には常に、欺瞞が付きまとう。
人に任せるのではなく、我々自身の問題は、我々自身が解決しなければならないのだ。

現在の日本の政治には、このような自立の思想が甚だ希薄になっている。
自民党も民主党も「自分たちに任せてくれれば問題がマジックのように解決する」と主張している。
しかし、これは欺瞞と偽善以外の何物でもないだろう。

政府の使う予算は我々が税金として納めるものであり、政府が雇う官僚は、我々と同じ国民の一員である。
我々は政府に頼る事は出来ないのだ。
「政府に頼る」とは実は、我々が我々自身に頼るという事である。
それは、自らの問題は自らが解決するという事に他ならない。

政府やお役所という何か天下り的な第3者が我々を苦労なしに救ってくれるという事は有り得ないのである。
こんな当たり前の真理を、これらのアメリカの愛国者達のYouTube映像は、我々に覚醒させてくれるのである。

アメリカのオバマ民主党の言う事と、日本の鳩山民主党の主張するところは、極めて似ている。
しかし、その欺瞞や偽善に誤魔化されてはならない。

我々自身の問題は、政党でも官僚でもなく、我々自身の手によって解決していかなければならないのである。
また、特殊な利益団体や圧力団体が、民意とは全く逆の政権を組織しうる危険性もある。
選挙を通じたからと言って、常に民意が叶う政権が実現する訳ではない。

この事に我々は、十分に注意しなければならない。

国民の大部分は、福島瑞穂社民党党首を、大臣にしようと思って投票した訳ではない。
しかし、今や彼女は少子化・消費者担当大臣に祭り上げられている。

政党とマスコミの癒着は、民意が素直に政治に反映される事を拒んでいる。
日本でも、アメリカでも、この事実に変わりは無いと言える。








『古代ローマ帝国の遺産』展に想う

投稿日:2009,10,09


今日は、午後から上野の国立西洋美術館で催されている『古代ローマ帝国の遺産―栄光の都ローマと悲劇の街ポンペイ』を観に行ってきた。
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個々の美術品の感想はさておくとして、何よりも感じたのは、ローマが偉大な俗物の帝国であるという事であった。
美術や学問の独創性においては、遠く古典ギリシアには及ばなかったが、彼らは巨大な土木工事を行ない、壮麗な都市を建設し、普遍性のある法令による壮大な帝国統治システムを創り上げた。

当時のポンペイの住居がコンピュータ・グラフィックで再現されていたが、今日の我々の水準から見ても、実に羨むべき物質的快適さが保障された家屋である事に感嘆せざるを得なかった。
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VR映像はここのページでも見られます⇒ http://roma2009.jp/highlight/chapter6.html
(ここで寝椅子に横になって、葡萄酒でも呑みたかったなぁ…。)

私は酒好きなので特に酒器の精巧なものに目を奪われた。
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当時のローマ市民は極めて高いレベルの物質的生活を享受し、それは恐らくは20世紀におけるアメリカ文明の物質的繁栄にも匹敵するものだったのではないだろうか?


現在、この時点で古代ローマ帝国の遺産を見ると、どうしてもローマ帝国とアメリカの間のアナロジーに想いを致さざるを得ない。
アメリカは間違いなく現代のローマ帝国なのであろう。
そして、そのアメリカ帝国が現在、衰退に向かいつつある事は確かである。

ローマ帝国の衰退、そしてかつての大英帝国の崩壊と比較する事により、今日のアメリカ帝国がどのように衰退してゆくかは、ほぼ想像する事が出来ると思う。
今日のアメリカにおいては、生産力の衰退にも関わらず、過度の消費が続き、これが帝国衰退の最大の原因となっている。
経済の衰退は当然、軍事力の弱小化をももたらす。
アメリカは最早、世界の警察官たる事に耐えきれなくなっている。
また、経済と軍事の衰退の更に根本的な原因となっているのは何よりも、アメリカ人の精神的価値の崩壊であろう。
アメリカを創り上げた強烈なピューリタン的精神は物質主義とあまりにも多様な移民の流入によって失われつつある、としか言いようがない。

ローマ帝国の崩壊と比較しつつ、今日のアメリカの衰退現象を見ると、オバマ大統領の位置づけもおのずと世情言われているのとは変ったものに見えてくる。
アメリカの上流階級がその指導性を失い、いわばどこの馬の骨ともしれない人間が大統領になったわけである。
これは黒人解放という点では前向きに評価される事であるが、多面からすればアメリカをリードすべきエスタブリッシュメントの衰退をも意味するのであろう。


 ローマは栄華を誇り、やがて衰退し、崩壊していった。
東ローマ帝国は長く持続はしたが、その文明は停滞したままだった。
滅んだ西ローマ帝国からはやがてヨーロッパの近代国家が産まれてゆくが、それには何百年もの長いプロセスが必要であった。

ローマは滅びても、その周辺にローマに匹敵するような、あるいはそれを凌駕するような大帝国が存在していた訳ではない。
ローマ帝国は崩壊はしたが、そこから中世のヨーロッパがスタートし、長い目で見ればヨーロッパ発展の基礎を築いた事になる。

しかし、アメリカの衰退はこれとは全く異なる国際的文脈の中で起ころうとしている。
アメリカに対抗する勢力には、EUのみならず、ロシアやシナといった、全く異質の帝国も存在する。
特にシナの帝国主義は最も野蛮な性質を備えており、これが拡大するならば、ヨーロッパ近代の人権や自由やデモクラシーといった政治的価値は全て否定されてしまうであろう。
つまり、アメリカ帝国の崩壊の後に来るのは、異なる文明圏の群雄割拠的な混乱の時代であり、特にシナ帝国の膨張主義はアジアにとって極めて危険な要素である。

  日本は、1つの独立した文明圏としての自覚を持ち、この現代のローマ帝国とも言うべきアメリカ帝国の衰退に如何に対処してゆくべきなのか?

単に国家戦略的なレベルのみならず、文明論的な視野からこれを考え、実行しなければならないだろう。


 本日観た彫刻の中で一番面白かったのは、『豹を抱くディオニュソス』であった。 これは、この展覧会のポスターにも使われている秀逸な作品である。
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豹の子供を抱いているというが、これがイタチかテンを抱いているように見える。
何やら不思議な彫像であり、怪しげな美しさを感じさせる。



今日の一句

何を抱く 上野の秋の ディオニソス 
            厳喜 






パウル・クレーと縄文的感性

投稿日:2009,10,05

 私の好きな画科の一人に、パウル・クレー(Paul Klee(1879-1940))がいる。
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クレーの抽象画を見ていると、私の中の縄文的感性が揺り動かされて、何か不思議な、また優しい気持ちになる。

 クレーの絵画は、ヨーロッパ的伝統の中では、謂わば絵画自体の崩壊した最後の到達点のような存在であると思う。
ヨーロッパのあらゆる絵画的技法が試され、その後に到達した極北の地点のような芸術である。
ヨーロッパの中の美的感性と論理が自己展開し、完成され、最後に自己崩壊してしまったようなその崩壊の形であるような、芸術とも言える。

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(※私の好きな絵 『子供の半身像』(1933))

恐らくは、クレーに与えた影響ということであれば、ヨーロッパから見えた近代以前のもの、すなわちアルタミラの洞窟の壁画やアフリカ黒人の原初的な芸術のようなものが考えられる。
しかし、私にはクレーの中にある根源的なもの、それは別の言葉でいえば「キリスト教以前のもの」更に言えば、「古典ギリシャ以前のもの」は、日本の縄文時代の感性に極めて近いもののように思われる。
縄文時代の巨石文化と極めて類似したものが、ヨーロッパのストーン・サークルのようなものに発見されるのは誰もが容易に気がつく事だ。
我々は、ヨーロッパの近代の華やかさに幻惑されて、キリスト教以前のようなあるいは、古典ギリシャ以前のようなヨーロッパの土着文化の香りに想いを致す事があまりに少ない。


しかし、例えばクレーの、『死と炎』『インスラ・ドュルカマラ』を見ると、私にはそれが縄文以外のものにはとても見えないのである。
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 (『死と炎』Tod und Feuer (1940) )

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 (『インスラ・ドュルカマラ』Insula Dulcamra (1938) )

また、クレーの「天使の絵」シリーズなどは、江戸中期の福岡の仙崖和尚の一筆書きの絵『お月さまいくつ』『猫の恋図』の世界観にも極めて似ているように感じられる。
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 (『お月さまいくつ、十八、七つ』 ※ 仙厓義梵(せんがいぎぼん)江戸時代後期の臨済宗妙心寺派の禅僧の作)
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 (『猫の恋図』) 


 萩散るや クレー、仙厓 呑むあたり   厳喜

 私の好きな二人の画家が、萩の散る野辺で酒を酌み交わしているという風景である。
クレーが酒をたしなんだかどうかは知らないが、仙厓は随分といけそうな口である。
どんなに楽しい会話が交わされることだろうか?

いや、そこに画帳の一冊も置いておけば、どんなにか面白い絵画の対話が成立していただろうか。
こんなことを考えるのが、私の楽園である。


日本で人気のあるクレーの数ある「天使の絵」にしても、私には縄文的感性の表現のように思われる。
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恐らくクレーの絵が非常に日本で人気のある理由はここにあるのであろう。

クレーは恐らくはあらゆる近代的絵画の思想と哲学と手法を吟味し、子猫のようにスルリと通り抜け、人間の「描く」という衝動の最も原初的な体験に出会ったのであろう。
それは意外に普遍的で所謂、民族の固有の文化や、文明圏の違いさえも超越しうる程に深い行為だったのではないか。

歴史家トインビーは、伊勢神宮をおとずれた時に、あらゆる宗教の底に存在する普遍性を私はここで感じる、と述べたが、クレーの絵を見ていると、あらゆる絵画の根底に存在するであろう描くという衝動の普遍性を私は感じるように思う。

パウル・クレーは、縄文土器を見た事があったのだろうか?
観た事があったとしても、なかったとしても、それは大した問題ではない。
本当の国際的な文化交流とは、単に外国のもの珍しいものに驚くのではないのは勿論、日本人の多くの様に外国文化の優越にひれ伏す事でも勿論ない。
また、いたずらに国粋的に独自の文化を外国に押し付けものであってもよいはずではない。
国際交流とは、お互いの文化や文明の根源を掘り下げる事により、その底辺に存在する共通の地下水脈的なもの、あるいは共通項を探し出し、そこから相互理解を進めるという事であろう。

またそれは、時に、ついには相互に理解できない要素を認識するという事でもあろう。

私が国際関係の研究をする時に常に心がけている事の一つは、そのようなことでもある。







西尾幹二先生の「路の会」に出席

投稿日:2009,09,30

西尾幹二先生が主催されている「路の会」の月例会に出席。
今日の講師は異例の抜擢で、普段は幹事役の徳間書店編集部の力石定一さんがヨーロッパ美術史の一側面について話した。

力石さんは、55歳の時に、突然、ある偶然で絵画鑑賞に目がひらいたそうで、それ以来、近代西洋絵画を自分なりの解釈で、勉強してきたという。
今日のテーマは、「フランダースからイタリアへ」という事で、ベルギー、オランダの北方のルネサンス絵画が、イタリアのルネサンス絵画に与えた影響について、個人的体験も踏まえながら、大変面白い話をしてくれた。

日本人は一般的に、イタリアのルネサンスが北ヨーロッパに影響を与えたとばかり、思っているが、実は宗教改革の影響を受けた、フランダース地方がイタリアのルネサンス絵画に与えた影響も見逃せないものだという。
この点は、絵画史の素人の私には大変勉強になったが、今日の参加者の一人、美術史の専門家の田中英道先生によれば、このような知見は専門家の間では既に確立された知識なのだそうである。

しかし、美術館での個々の絵画との出会いによる感動を情熱を込めて語る、力石さんの話には、大いに心を動かされた。
それは評論というよりも、個人の美的な体験史といった話であった。

力石さんは特に、ペーター・ブリューゲルの絵画から受けた感動を、そのユニークな解釈を込めて力強く語ってくれた。
綺麗な絵画のプリントアウトされた資料を見ながらの楽しいレクチャーと質疑討論であった。

ブリューゲルの絵画は、寓意を込めたものが多く、様々な解釈が可能であり、長く見ていて飽きない。
知的な迷路にも似た、作品が多い。
特に私は、本日配られた資料の中にもあった、「死の勝利(1562)」に強く惹かれている。
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The Triumph of Death 死の勝利 1562年頃 プラド美術館

この絵は、第一次、第二次大戦はおろか、21世紀の無制限戦争の時代に到る、近代の行く末というものを既に予見したような恐ろしい終末論的な絵画である。
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そのような具合で、本日は、美術論議に花が咲いた楽しい「路の会」であった。








本日、黒門町句会(藤井厳喜の俳句教室)―「俳句の世界」と私

投稿日:2009,09,20

 今日、午後3時から5時まで、私が講師を務める俳句の勉強会を行なった。
月1回のペースで勉強を続けているが、場所は台東区の黒門町である。
地名をとって「黒門町句会」と称してもう、3年目になる。
最も、黒門町といっても、地図の上にこの名前はない。
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旧い地名で、町名変更により、「黒門町」という名前は、消えてしまっている。
分かりやすく言えば、東京の山手線の御徒町の西側あたりの町名で、現在かろうじて黒門町小学校という小学校の名前が残っている。
落語の好きな方ならば、桂文楽がこのあたりに住んでいて、「黒門町の師匠」として有名であった事を記憶しているはずだ。

俳句の勉強会と言っても、毎回の参加者はせいぜい5-6名で、会の後の呑み会が重要である、というような会ではあるが、小生の俳句に対する想いを有りの儘に語らせてもらう、小生にとっては貴重な場になっている。

昨年から、テキストは『定本 現代俳句 (角川選書) 』(角川選書292)である。
山本健吉のこの本は、明治以降の俳句の入門書としては、定評のあるものである。
この本に入る前に、一年以上費やして、江戸時代の俳句の古典を勉強した。
この2年ほどは、山本健吉の現代俳句の勉強を続けて来た。


俳句を創る人は多いが、私の不満は、多くの俳句入門者が古典を重視しないという事である。
俳句は、大衆文学であると言われる。
その意味は、俳句を読む者は、ほぼ俳句を創る者に等しいからである。
これは、小説ではあり得ない現象である。
小説を読む者の何パーセントが、果たして小説を書くであろうか?

俳句においては、俳句を読む者は、ほぼ俳句を創る者である。
「読む者」はイコール、「創る者」である、という文学は、世界でも極めて珍しいと思う。
そこに、俳句の特質がよく表れている。

俳句は、創ろうと思えば、誰でも直ぐに創る事が出来る。
そこに大きな問題がある。
少々、言葉の勘のいいものなら、見よう見まねでそこそこの俳句は出来てしまうのである。
そこに古典を軽視するという大きな落とし穴が生じる。

和歌の世界においては、古典重視の傾向はハッキリしていると思う。
しかし、俳句においては、古典をシッカリ踏まえた上で、作句するという当然のプロセスが軽視されているように思う。

そこで、私の句会では、会員が創って来た句を添削する事を二義的とし、取敢えず、会員の俳句に対する教養を高めるべく、この3年間、句の古典的な句の勉強を地味に続けて来た。
ようやく今年中にこの本の勉強が終わりそうである。

俳句と和歌の区別は、非常に重要であると思っている。
似たようでいて、全く違うのが和歌と俳句である。

私流に例えて言うならば、和歌は映画であり、俳句は写真である。

俳句は縄文的であり、和歌は弥生的である。
俳句は、男性的であり、和歌は女性的である。
最も、最近は、肉食系女子も多いというから、こういった女性達には、俳句は向いているはずである。(笑)


私の見方からすれば、俳句と和歌は、詩精神の両極端を表しているように思える。
和歌が物語性を重んじるのに対し、俳句は決断を重視する。
和歌の世界は、容易に小説の世界に繋がり得るが、俳句は自己完結し、現代詩の世界には連結しえても、小説や物語の世界とは融合し得ない。
俳句においては、何よりも決断が重視されるのである。

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良い句が詠めた時は嬉しいし、心が躍動する。
その快感を求めて、私は俳句の古典も読むし、俳句の対象になる風景をも熱心に見渡すという役割を担っている。

例え俳句を読まなくても、俳句は世界最短の定型詩であり、英語やフランス語等の世界でも、俳句に真似て詩を創ろうというものは、既に戦前から出現している。

日本を理解しようとするならば、他の国には存在しないで、日本にしか存在しないものを理解すればよい。
皇室とは、まさに日本に存在して、日本にしか存在しない数千年の歴史を持つ政治文化である。
同時に、俳句もまた、世界に類例を見ない、世界最短の定型詩である。

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もし、私と一緒に、俳句を勉強したいという方がいらっしゃるならば、お気軽にご連絡頂きたい。
FAX; 03-3650-7873    



【今日の一句】

 上野公園の大噴水を見て・・・
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『噴水の影 秋の陽(ひ)に 隕(お)ちにけり』


【最近つくって気に入っている句】

『秋の陽(ひ)や 髪止め弾け 光り落つ』
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秋日和の静寂の中に、女の金属製の髪止が突然、パチンと弾け、秋の陽に光って落ちた、というのである。
最近、創った中では、気に入っている句である。

スサマジイ勢いで文化が劣化してゆく日本列島の中で、まともな俳句を創ろうとする文学上の運動は、既に政治的なレジスタンスとすら呼び得るであろう。
崩れてゆく中で、守るべきものを守ってゆこうという、必死の抵抗に他ならない。


【私が世界に向け、日本文明を英語で紹介し発信したもの】
1/2 Gemki Fujii's Guide to JAPAN,Yesterday,Today,and Tomorrow 


2/2 Again About Myself A Little More 






国民よりレベルの低い政府?

投稿日:2009,09,16

誰が言ったかは知らないが、よく民主政治に関して聞かれる諺に、
「国民は自らのレベル以上の政府を持つ事は出来ない」というのがある。

 民主政治下の人間が、自らの政府を批判した時に、よくこの諺が一種の白けた反対意見として提出される。
所詮、自分たちが選んだ政府じゃないか?というわけである。

確かにこの諺は、誰もが否定できない真実を含んでいる。
しかし、この諺は、普通の人が思っている以外のある状況も示唆している。
どういうことか?
それは、デモクラシーにおいては、しばしば「国民は自らのレベル以下の政府をもつ」ということである。

民主党政権が国民と同じ程度に愚かな政府なのか?

それとも、国民の平均レベルよりも更に愚かな政府なのか?

この二者択一を我々はこれから見極めようとしている。


デモクラシーにおいては、最終的には大衆と呼ばれる人々が選択をするのであるが、重要なのは大衆の道徳的かつ、知的レベルばかりではなく、リーダーの道徳的かつ知的レベルである。
デモクラシーは、まさにデモクラシーであるがゆえに、リーダーシップなしには成立しない。
厳密的には、指導者の側のリーダーシップと、大衆の側のフォロワーシップの融合により、デモクラシーのレベルが決定されるのである。

大衆がそこそこのレベルにあっても、指導者たちがそのレベルよりも低いということはありうるのだ。







麻生さんから鳩山さんへの手紙

投稿日:2009,09,04

民主党代表、鳩山代表殿

拝啓、衆議院選挙における大勝利おめでとうございます。
心より民主党の躍進をお喜び申し上げます。

今後、鳩山代表が総理大臣となり、大いにリーダーシップを発揮し、日本国の発展と日本国民の幸福の為に、尽力される事を衷心より期待申し上げております。

選挙の戦いは終わり、国民の審判は既に下されました。
今後は我が自民党は野党となりますが、建設的な野党として日本国の発展に貢献してゆきたいと思います。

また、私個人も一衆議院議員として、一国民として、日本国の安定と繁栄の為に、尽力してゆく所存です。

民主党政権が、国家国民の為の政策を推進されるならば、これに喜んで協力していきたいと思います。
また、そうでない時は、建設的な反対意見を提出し、政策論争で競い合ってゆきたいと思っています。

我々の間には、政策上の大きな意見の相違がありましたが、政党とはそれ自体が目的ではなく、国家の発展の為の1つの道具にすぎません。
政党の立場の違いは絶対的なものではなく、相対的なものです。
政党上の立場の違いを越えて、国家の発展、国民の幸福の為に努力する事こそ本来の政党政治の原点であると確信します。

民主党政権の新たな船出を祝福すると同時に、鳩山代表の益々のご健勝をお祈り申し上げます。

内閣総理大臣 麻生太郎



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 こんな手紙を、麻生さんが鳩山さんに送ることが出来たら、どんなに素晴らしいだろうか。

 それだけで、国民の心は明るくなるし、日本の未来に一筋の光が差してくるように思われる。
アメリカの大統領選挙では、敗者が勝者に電話をかけて勝利を祝福するのが慣例になっている。

負けた側が先ず、電話で勝った側に、祝福を伝え、その後で敗北宣言を出す。
それを受けて買った側が勝利宣言のスピーチを行なうというのが、定まった政治的慣習になっている。
儀礼的ではあるが、選挙という戦いを終えた後は、アメリカ国民は再び団結しようというメッセージが勝者と敗者の双方から発せられる訳である。
これは美しい政治的伝統であると思われる。
政権交代が頻繁に起き、しかも共和制であるので、大統領が元首となる体制である。
その元首を選挙で選ぶのだから、接戦で勝った場合、有権者の半数近くが政敵であると考える人物が元首になってしまうわけである。
そういった感情のしこりが残っていては、共和国は常に分裂してしまうから、先に言ったような政治的儀式を通過する事により、愛国心と国民の団結心を再確認するのである。
君主国に於いては、総理大臣の上に、選挙の結果とは関係なく、君主が元首として存在するから、国家の分裂の危険は共和制ほどではないにしろ、このような国家の政治的分裂を避ける政治的英知というものは、常に必要であろう。

 特に日本のように与野党の交代が頻繁に起きて来なかった政治文化においては、激しい選挙戦の後に、国民の一体感を回復する政治的な儀式がより一層必要とされるであろう。
麻生さんがもし、上記のような手紙を鳩山さんに書けば、このような相手の勝利を讃える書簡というものが日本政治の新しい慣習の1つとして定着するようになるかもしれない。
是非そのようになることを期待したい。

文中でも、述べたように、政党政治とは、所詮、国家発展の為の方法であり、手段に過ぎない。
政党が競い合うことによって、よりよい政策を実行し、国民の幸福が実現すればよいのである。

また、麻生さんがこのような手紙を書くことが出来るとすれば、それこそが自民党再生の第一歩になるに違いない。




================== 【★ 引き続き、映像の世界への拡散にご協力ください。】=================

 先日もご紹介させて頂きましたが、英語版「厳喜に訊け!」特別篇ということで、、NHKが4月5日に報道した『JAPANデビュー・アジアの一等国』の捏造報道事件について、国際放送を通じ放映された事をうけ、英語圏へのNEWS発信として、流させていただきました。
 御蔭様で、現在、YouTubeの1つのアドレスのみで、約16000人以上の方に発信する事が出来ました。御礼申し上げます。
様々な方から、反響、ご感想など、色々なご意見、激励を頂きました。
感謝しております。

が、この事はまだ引き続き伝えていかなければいけないと考えております。
今後もまだまだ多くの方に幅広く発信したいと思っておりますので、よろしくご協力お願いいたします。

Mega Class Action Against NHK. Japan's Public Broadcasting Corporation, For Human Rights Violation. [Ch-SAKURA August 22, 2009]




URL; http://www.youtube.com/watch?v=KJ-Uw4ZUnmQ 

More than ten thousand citizens are filing a lawsuit against NHK, on a Japanese public broadcasting corporation. This is the largest class action in Japan's court history. The reason is human rights violation due to fabrication. NHK fabricated a TV program on Taiwan. Many Taiwanese feel humiliated their human rights were violated. Quite a few Japanese who love Taiwan filed a lawsuit against NHK, and some Taiwanese have joined the class action. Commentator is Gemki Fujii, lecturer at Japan's National Police Academy.
Please check his own web cite also at gemki fujii com.

「厳喜に訊け!」特別版。NHK「JAPANデビュー」問題について英語で発信しました 。

※ 是非、この英語の映像が世界の、特に英語圏の方々に少しでも多く伝わるよう、ご協力、ご支援ください。

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マイケル・ジャクソンの悲劇

投稿日:2009,06,27

マイケル・ジャクソンが他界した。

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この人の業績について、云々する立場に私は無い。
しかし、感じた事の何がしかをここで述べておきたいと思う。

彼は、私の知るところ、黒人差別については強い抗議の意思を持っていたようである。
しかし、それは、彼の美意識とは根本的に矛盾していたのではないか?

彼は、黒人である自分の外見を嫌い、ひたすら白人のようになる事を望んで整形手術を繰り返していたと聞く。
彼の、美の基準は、徹底して欧米系白人の美の基準であったに違いない。
これを悲劇と呼ばずして、何を悲劇と呼ぶべきだろうか?


1960年代から、70年代にアメリカで興隆した黒人解放運動に私は100%賛同するものではない。
しかし、彼らのスローガンの中に、1つすばらしいものがあった。
それは、「ブラック・イズ・ビューティフル!」というスローガンであり、思想である。
白が美しく、黒が醜いのではない。
黒人にとっては、黒こそが美しいのである。
このように、美の基準を自らの内側に求める思想には私は大いに感動した。

ところが、マイケル・ジャクソンの悲劇は、彼は「ブラック・イズ・ビューティフル!」と叫べなかった事である。

日本文化の美の基準は、日本人の心の中にある。
西洋のクラシック・バレエの美の基準と能の舞の美の基準とは全く異なっている。
私は、日本人として、能の美の方が西洋のそれよりも普遍的により深いものであると信じているものであるが、少なくとも、表面上は、平等なものである。
西洋の白人には、彼ら独自の美の基準があり、日本人には、縄文時代以来、培ってきた我々独自の美の基準がある。

 マイケル・ジャクソンの悲劇は、自らの内なる美の基準を信じ切れなかったところにあるのではないか?

 類まれなエンターテイナーの冥福を祈る。






世界経済の裏舞台

投稿日:2009,06,26


 6月26日付のファイナンシャル・タイムス誌にアラン・グリーンスパン元FRB議長が、論文を寄稿している。

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 「今後、もし景気が回復していけば、インフレが心配になるだろう。」等という点を述べたエッセイで、いわば常識的な内容であり、特筆すべき主張は特にないと思った。

 この論文自体については、対して言及するところは無いのだが、この論文を読み、ふと思ったことがある。

 グリーンスパンにしても、ポールソン米財務長官にしても、バーナンキFRB議長にしても、昨年9月のリーマンショックのはるか以前から、世界経済の大きな問題点を察知しており、大きな破綻が来ることは彼らの本音の部分では殆ど自明のことだったはずである。

 特に世界の巨大なアングラマネーがこの金融恐慌の引き金になることは、100も承知だったはずである。
かつて、マエストロと呼ばれ、世界中から尊敬されていたグリーンスパンの評判は、地に落ちた感があるが、彼は現役のFRB議長の時から世界経済の舞台裏を十分に知り、アングラマネーの巨大化の危険性を十分に知りながら、敢えてそれに手をつけることはしなかったのである。
謂わば、善も悪も知り尽くした上で、取り敢えず自分の任期中には、破綻を起こさせないという綱渡りのマネージメントをやっていたわけである。
 今日、彼を非難する人は多いが、彼はゲームのルールを熟知した上で、精一杯自分の立場を守ろうと行動してきたに違いない。
 リーマンショックが起きた時のポールソン財務長官にしても、何しろ元ゴールドマンサックスの会長なのだから、巨大アングラマネーが引き起こした世界の金融バブルの危うさについては、十分に知っていたに違いない。

私が一番賢いと思うのは、クリントン政権の財務長官を務めたルービン氏である。
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ITバブルを招来し、アメリカの株価を上昇させて、国民を大いに喜ばせた後、最早ITバブルが限界と見るや、サッと身を引き、後任をサマーズ副長官に任せて引退してしまった。

 彼なども、世界経済の舞台裏の危うさについて、元ゴールドマンサックスの会長として、十分に知っていた人物である。


いずれにせよ、これらの大物たちは、いずれも経済が好況に沸いている時ですら、その影でアングラマネーを中心とする経済のブラックホールが、益々巨大化しているという事実にも十分気が付いていたはずである。
  裏も表も舞台の上も、舞台の裏も、十二分に知ったうえで、経済をマネージメントしようとしてきた面々である。
 ヨーロッパの第一級の指導者にしても、同様であろう。


 それに比べて、日本のエリートはどうだろうか?
政界・官界・財界のいずれを見ても、リーマンショックの前において、世界経済の裏のゲームや、そこに待ち受けている巨大なリスクについて、明確な認識をしていたものは殆どいなかったのではないか。
日銀や、財務省のトップレベルも、アングラマネーの巨大化が引き起こした金融バブルの巨大化とその危険に対してハッキリとした認識を持っていたものは殆どいない。

 これについては細かな説明は要らないだろう。
白川日銀総裁の顔を見れば分かる。

 政治家の中にそういう情報を持ったものも勿論、皆無であった。
要するに、世界経済の特に、金融の裏舞台で何が起きているのかについてシッカリとした認識をしているものは日本のエリート層には皆無だった訳であるこれが日本の悲劇である

 グリーンスパンは悪人には違いないが、全てを知った上で見事な悪人ぶりを演じてきている。
日本のトップエリートは、彼らに比べれば、ひ弱な「善人」ばかりである。

 私は、自ら発行しているレポートの2008年1月号で、世界の同時金融危機の到来をハッキリと予測した。
何も、秘密情報でこれを予測したわけではない。
いくつかのソースからの情報はあったものの、基本的には公開情報と、推論からこの結論に到達したのである。

 私が予測できた事を、グリーンスパンやポールソンが予測できなかったはずは無い。
彼らは、悪を悪と知って、行ないながら、崩壊の時を迎えたのである。
日本とは何という違いであろうか?

 日本のトップエリートはあまりにひ弱であり、世界の裏舞台からも疎外されている。


 政治家や官僚や財界人が「善人」である必要は無い。
日本からは一流の「悪人」も払底してしまったのである。






日本はいつから多言語国家になったのか?

投稿日:2009,06,22

最近、非常に不愉快に思っていることが1つある。
それは、公的な場所において、様々な表示がシナ語や朝鮮語で行われている事である。

JRの駅などが典型であるが、英語表示の他に、シナ語と朝鮮語(ハングル文字)で表示が書かれている事が既に定着してしまっている感がある。

今日、警察の発行している遺失物の小さなパンフレットを目にしたのだが、これにも英語の他にシナ語と朝鮮語の但し書きがついているといった有様である。

日本は一体いつから、多文化主義やら多言語主義を、国の方策として採用したのか?




多くの人は、単に日本在住の外国人の人口が多い為の便方と考えるかもしれないが、私は言語と言う重大な点において、日本が外国に侵略されている事の表れとしか思えない

特に、シナと朝鮮に関しては、歴史教科書問題等において日本に対する不当な内政干渉を繰り返している国々であり、世界で最も反日的な政策を取っている国々である。
それらの国の出身者が、日本国内に多く存在するといっても、それらのまたかなりの部分は違法滞在である。
これらの違法滞在を含む外国人に対して日本人が媚び諂うように、彼らの言葉による表示を公の場所に掲げるのはあまりに屈辱的、かつ倒錯的ではないか?

欧米人であり、如何なる外国人であれ、日本に住んで働きたければ、日本語を理解しなければならない。
それは移民の国、アメリカですら常識である。
まして我が国は、大量の移民を受け入れる事を国として決断したわけでもなく、多言語主義、多文化主義を国の方策として採用したわけでもない。

シナ語や朝鮮語の氾濫は、日本人の日本人らしさを傷つける文化的な侵略の一環であると私には思える。

事実、シナの外交政策においては、巨大な人口を背景とした外国に対する、不法移民による人口圧力は1つの外交手段とすらなっている。
大量の合法・非合法を含む、シナ人を日本に送り込み、暴力団などを中心に、日本の治安を大いにかく乱し、違法に稼いだ金を掠め取り、更に日本社会全体にシナの影響力を拡大していくというのが、現在のシナ共産党が日本に向かって行っている隠れた外交政策の基本である。
まして、漢字が読めるシナ人は、日本の公的な場所の様々な表記については、大体の理解が出来るはずであり、これをわざわざ現代のシナの標準語に書き換える必要はないはずである。

アメリカの一部では、メキシコからの合法・非合法の移民が多いために、バイリンガル教育を採用しているところがある。
しかし、バイリンガル教育に対する反対の声は、メキシコ人の親達からもあがっている。
その理由は、バイリンガル教育を続けているために、子供たちの英語能力が一向に向上しないからである。
彼らは寧ろ、バイリンガル教育こそ、差別教育である、と訴えている。

アメリカ人の保守派の中には、英語をアメリカの公用語としてハッキリ位置づける法律を作るべきだとの主張もある。
アメリカのような移民によって成立している国でも、移民達がアメリカ英語を習得する事によって1つの国民になっていくというプロセスが根付いている。
まして、日本のような元来が移民によって成立していない国においては、日本に働きに来るものが日本語を学習するのが義務であり、当然のことであろう。

シナや朝鮮に媚びるような、そして彼らの文化的侵略を助長するようなシナ語や朝鮮語による表示には全面的に反対である。




「人間は『聖書』ではない」? NHK、朝の連続ドラマに思う

投稿日:2009,06,05

 NHKテレビ第一放送、朝の連続ドラマ『つばさ』を見ていて、面白いことがあった。

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イッセー尾形、扮する人物が主人公の少女、つばさに御説教をする場面があった。

 確か6月4日?放送分?、その中で彼は「人生は複雑であり、人間の中には美しいものばかりではなく、どろどろとした醜い欲望もある」というような教訓を少女に説くのである。
 それはそれでよいのだが、この時に、「人生は教科書ではないし、聖書でもない」というような表現が使われていた。

 「人生は教科書ではない」、は良いであろう。
人生は型どおりの建前だけではないと言うほどの意味であろう。

しかし、「聖書ではない」という表現は明らかに、この人物の説く教訓の内容と矛盾している。

 『聖書』というからには勿論、キリスト教の聖書のことであろう。
新約聖書はともかくとして、旧約聖書を読んでみると良い。
そこに現れているのは、人間の崇高な感情と同時に、人間のドロドロとした欲望が展開する様々な物語である

裏切り、殺人、姦淫、略奪、人間の考えうるあらゆる悪徳がそこには記録されている。

そもそも旧約聖書とは、ユダヤ人の民族の歴史なのである。

おそらくこの「つばさ」のシナリオ作家は、旧約聖書などは読んだことがないのであろう。
要は教養の欠如である。

公共放送であるNHKが、このような知的レベルの低い番組内容を垂れ流しにするというのは、まことに哀しく、憂うべきことである。


 これは、NHKの政治的立場とは全く関係がない。
NHKで番組制作にかかわる人々の知的水準が極めて低いことがココに痛いまでに現れている。

小野田寛郎先生の講演に感動

投稿日:2009,05,17

 5月15日(金)午後5時半から憲政記念館(東京都千代田区永田町1-1-1)で、小野田寛朗(おのだひろお)先生の『日本への遺言』と題する講演を拝聴した。
 あのルバング島30年の小野田さんである。
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私は、小野田先生の言葉の一つ一つに大いに感動した。

 涙が自然に溢れ出て、とまらなかった。
そして、大いなる勇気を頂いた。

 「小野田先生は今も頑張っていらっしゃる。私のようなものでも、何とか頑張ってやってゆけそうだ!」 そう思えたのであった。
深く感動し、確信したのであった。

 小野田先生、本当に有難うございます。
会を主催していただいた西山雅規さん、藤井勝さんのお二人に心より御礼申し上げたい。

 小野田先生の講演は質疑を含め、2時間に及んだ。
内容は多岐に渡ったが、特に感動した点のみについて記したい。

 外国人記者が小野田先生に次のように聞いたという
「貴方は30年もルバング島で戦ってきた。それなのに、何故?天皇陛下は貴方に会わないのですか?天皇陛下に会いたいとは思いませんか?」
これに対して、小野田さんは次のように答えたという。
「私は靖国神社に行き、皇居前広場に行ってご挨拶をして出征しました。
日本に帰って来た時も、靖国神社にお参りし、皇居前広場に行き、天皇陛下に帰朝のご挨拶をしました。
一少尉が陛下に個人的にお目にかかるという事などは思いもよらないことです。
日本人は、日本人なら、これで十分なのです。」
この小野田先生の言葉を聴いた時に、私は、思わず泣いてしまった。

また、外国人記者は次のような質問も投げかけたという。
「小野田さんは30年間も兵役についていたのですから、その間の報酬を国家に請求したらどうですか?」
小野田さんは帰国した折に厚生省から約23000円の支給を受けたという。
戦後、帰還兵に支給された額を元に計算されたものであるという。
小野田さんは、それ以外のものは国家からは一銭も受け取っていないという。
小野田さん曰く、「死んだ戦友のことを思えば、生きて帰っただけで有難い事です。お金をもらおう等と言う事は思いもよりません。日本人なら、それが当たり前でしょう。」
私はこの言葉にも深い感動を覚えた。

小野田先生は、中曽根康弘という固有名詞は出さなかったが、「大勲位」という言い方で、中曽根元首相を鋭く批判した。
今や、中曽根さんは親中派である。
最近の中曽根さんの言動が国益の為になっているとは思えない。
小野田先生もそう感じられているのであろう。
「大勲位は陛下に返上すべきです」
という言い方で中曽根元首相を批判されたのであった。

小野田さんが帰国された直後に、NHKが取材を申し込んできた。
日時を約束して取材に応じたが、その約束を無視して突然、自宅を訪問してきたという。
元々、嫌々受けた取材ではあったが、約束を無視されて、益々NHKの非礼な態度に怒りが込み上げてきたそうである。

突然たずねてきた記者を叩き帰したそうである。
「今度の台湾に関するの報道も事もありますが、NHKは昔からおかしいですよ」というのが、小野田先生の感想であった。
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小野田先生と同じ時代に生きている。
小野田先生のお話を直接、聴くことが出来る。
それだけで私には大きな感動である。


参考、ご紹介 : 小野田先生について = 公式プロフィール
          小野田先生がなさっている『小野田自然塾

こいのぼり

投稿日:2009,05,05

5月5日は「子供の日」。
旧い言い方で言えば「端午の節句」ですが、皆さんは鯉のぼりをあげたことがありますか?

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実は、寂しいことに私は一度も無いのです。

私には、今年、28歳になった長男がいますが、彼の為にも鯉のぼりをあげたことはありませんでした。
私が子供の頃は、一軒家に住んでいて、裏に物干し場くらいはあったのですが、堂々と鯉のぼりをあげるスペースはありませんでした。
私の長男が子供の頃にも、やはり住宅事情から鯉のぼりをあげることは出来ませんでした。

そういうこともあるのでしょう。

鯉のぼりを5月の空に高々となびかせている家を見ると実に羨ましい。
特にそれが地方の広々とした田園風景の中に泳いでいる鯉のぼりであれば、なおさら、その感を深くします。

鯉のぼりをあげてもらっている男の子は、今日の日本でも先ず、相当な幸せな子供の部類に入るのではないでしょうか?
私が子供の頃、武者人形は飾ってもらっていました。
特に、私の記憶の中では、元気のいい金太郎の人形が印象に残っています。
それから、玩具の冑、これは武者人形は無くて冑だけでしたが、そのキラキラとした美しさが今でもありありと思い出されます。
多分それらの人形は、私の母方の祖父母から伝わったものだったと思います。
両親に尋ねたことも無いので、そもそも誰から譲られたものかはよく分かりません。
ただし、それらが新品でなかったことは確かで、また、少々壊れたところもあったので、恐らくは先祖の誰かから譲り受けたものだったのでしょう。

柏餅を食べて、無邪気に銭湯の菖蒲湯に喜んでいた頃の記憶が懐かしく思い出されます。

そういえば、菖蒲湯というのも実によい習慣ですよね。

最後に菖蒲湯に入ったのは何時だったかなぁ?

私はちなみに文部省唱歌の「鯉のぼり」が大好きです。
今頃の季節になると、この歌が自然に口をついて出てきます♪


  甍(いらか)の波と 雲の波 ♪
  重なる波の 中空(なかぞら)を♪
  橘(たちばな)かおる 朝風に♪
  高く泳ぐや 鯉のぼり♪


 この歌は、歌詞も大変いいですが、メロディーが実にすばらしい。
まさに皐月の空を吹き抜ける爽やかな風を思わせる、心踊るメロディーで私は大好きです。

白いウサギと黒いウサギ? 

投稿日:2009,04,14

 メキシコの自宅では、ウサギを飼い始めていた。

 庭はそこそこの広さで、親類からもらった白1匹、黒1匹のウサギである。
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 滞在している1週間は、私がエサ係であった。
2匹とも仲良しで、カワイイものだ。


 次女の娘(大学1年18歳)にウサギの名前を尋ねてみた。

ペットとして飼っているのだから、名前ぐらいはあるのだろう、と思ったのである。

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 娘のハナコはニコニコして中々こたえない。
「是非、教えてくれ」と頼むと、こう言った。

「ブッシュとオバマだよ!」

 一同、大笑い。

 中々いいネーミングだ。

父親は犬か!?

投稿日:2009,03,25

ソフトバンクという携帯電話会社のCMが頻繁にテレビで放映されている。


ある家族を想定した携帯のCMなのだが、どういうわけだか、父親だけが犬である


多くの人は何気なく、このCMを奇妙なシュールなモノとして受け流しているようだが、私は実に気分が悪い。
日本の父親が犬であるということが、何という品格に欠けた、悪意に満ちたCMであることか!
よく考えてみて欲しい。

吉田茂邸全焼

投稿日:2009,03,22

大磯の旧吉田茂邸、通称ワンマン邸が全焼した。

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実は、私は、この建物の中に二度、入った事がある。
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大磯の隣町、二ノ宮に私も大変御世話になっている鈴木利男さんという方が住んでらして、この方のご案内で、内部を見学させてもらったのである。
一度は、ワンマン邸の中の食堂で、一同7,8人で食事会を催し、それが実に楽しい思い出となっている。
旧吉田邸は、私の記憶が正しいならば、西武資本の管理するところとなっており、鈴木さんが会社側と話し合って、私達を招待してくれたのであった。
食事会の料理は確か、大磯のプリンスホテルから取り寄せたのではなかったか?と記憶している。

食堂は、西洋風で大きく、縦に長いテーブルであった。
いつも吉田茂が座っていたという、席からは、正面に大きなガラス窓があり、その窓のかなたには、富士山が見えていた。
二階の吉田の書斎には、吉田が現役の首相である頃は、極少数の側近しか入れなかったそうだが、吉田専用の木製の小さな湯船があったのが印象に残っている。

吉田がこの建物から、東京に通うために、無理やり道路を整備させ、これがワンマン道路と呼ばれた事などは、比較的良く知られた戦後政治のエピソードであろう。
当時、若手の政治家であった田中角栄などは、大磯に来ても、このワンマン邸の中に入る事ができず、門扉にあるインターホンで、挨拶だけをして、帰っていったといわれている。
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私がワンマン邸を訪問したのは、既に7-8年前の事ではないかと思うが、当時、西武資本は、この邸宅と庭の管理の為に、月何百万円かを支出していたと聞いている。
放火による全焼ではないかと思うが、何らかの、政治的な意図が隠された事件なのかどうかは、今のところ全く分かっていない。

吉田の孫にあたる、麻生さんが現役の首相であるだけに何か、隠された政治的意図がある事件ではないかと疑ってしまう。
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ワンマン邸を案内していただいた鈴木さんは、大正13年の生まれで、(株)エスデージーの創立者、現在は、書道家として活躍されている方である。

一喜一憂しない日本人

投稿日:2009,03,15

先週、アメリカのダウ平均が、4日続けて上昇した。
大喜びしている人は多い。
ハッキリ言えば、喜んでいる人は愚かである。

「一喜一憂」という言葉を思う。
恐らく4月になるとアメリカで、生き延びられる銀行と、生き延びられない銀行が完全に区分される。
アメリカの株価は、この時点でさらに下がるだろう。
大局を見なくてはいけない!
一喜一憂してはいけない!

一喜一憂しない、腹の据わった、愛国心のある人物が世に出なければならないと思う。

私の言論活動は、その為にある。