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『未来学の基礎と検証』シリーズ第1回 - 3 (/4) 藤井論文、20年前の論文を読む

投稿日:2009,05,08

このブログ内での「連載シリーズ」として試みる事にした、『未来学の基礎と検証』シリーズ第1回の中の 『藤井論文、20年前の論文を読む 3 (/4)』、3回目として、本日は引き続き、「低開発国のディレンマ」をお届けしようと思う。

※ 1(/4) 「自由経済化の奔流」「なぜ共産主義は破綻したか」 
  2 (/4) 「裏切られた必然」  

共産主義の脅威という場合、二つに分けて考える事ができる、というのが筆者の立場である。

まず第一に先進国においては、修正資本主義の考えは広まるにつれ、共産主義の脅威というのは非常に小さくなっていった。
これが前回の論点であった。

第二次大戦後の冷戦のプロセスにおいて実は共産主義の脅威とは主に貧しい低開発国において共産主義が拡まってゆくという脅威であった。
アメリカのタカ派を始めとする先進国の多くの人は、この低開発国に拡がる共産主義というものの中味を全く誤解していた
世界の貧困地帯における共産主義の指導者は、共産主義イデオロギーによって洗脳されたインテリのグループではなく、祖国を貧困と搾取から救おうとする民族主義者であった
王政や伝統的な貴族階級の存在しない社会においては、民族主義者は容易に左翼化し共産主義を受け入れるものである。

彼らが直面していたのは、16世紀以来の西洋の白人による凄まじい植民地主義による搾取であった。
低開発国は単に貧しいのではなく、先進国に搾取されているがゆえに、その経済構造を徹底的に破壊され、貧困に追いやられているのであった。
先進国では資本家=搾取階級、労働者=被搾取階級という図式は概ね非現実的なものとなった。

しかし世界の経済構造の中においては、先進国=搾取国家、低開発国=被搾取国家という図式はナンセンスなイデオロギーではなく、まさに現実そのものだったのである。

第三世界のリーダーにとっての現実とは、先進国の多国籍企業によって労働と自然資源は安く買い叩かれ、かつて存在した伝統的農村共同体は外国資本によって買い叩かれ、庶民は貧困の極致を彷徨うというようなものであった。
男の兄弟は、麻薬を売り、妹は売春をし、家庭は崩壊している。
そのような現実はあまりにありふれていた。

そのような現実を救おうとする時に、マルクス主義理論は確かに1つの力となった。
南北間の経済搾取構造を否定しなければ、低開発国は永久に自立を達成する事はできない。
南北問題とは、北=先進国、南=低開発国の間に存在する階級的搾取構造の問題である

そのような経済構造を前提とする限り、低開発国の多くにとって、共産主義が自立の為の1つの選択肢であったのは事実であった
先進国との交易関係を否定すれば、経済発展の元となる資本や技術を導入する事は極めて難しくなる。
それ故に、毛沢東やカストロやホー・チミンが目指したのは、豊かになる事ではなく、自立し、国を閉じ、貧困を平等に分かち合う事であった。
貧困ではあっても、そこには、民族の自立と国民の平等が有り得たのである。

以上のように理解する時、低開発国にとって、共産主義が何を意味していたのかが極めてよく理解できる。
低開発国の共産主義のリーダー達にとって、豊かさよりも自立のプライドこそ最も重要なものであった。


以上のような視点から、今回の連載第3回目の論文を読解して頂きたいと思う。   

Manuel_Urrutia2.jpg
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 ※ 以下は、10ページの論文記事を4回に分けてお届けするシリーズの第3回分である。

          (中央公論1989年9月号掲載論文 『共産主義「終焉」の後に 』 より)
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【 4.低開発国のディレンマ 】


  共産主義を第二次大戦後の国際政治において論ずる場合、低開発国への共産主義の拡大が重要なテーマになってきた。
ロシア革命時のロシア自体が、ヨーロッパの中ではきわめて工業化の遅れた後進国であった。
中国もまた圧倒的な農民・農業国であり、この農民の心を掴むことによって、毛沢東は中国革命に成功した。
経済先進国において共産主義のアピールが早くから激減した事実はすでに述べたが、第二次大戦後に共産化した国は、低開発国に共産主義が蔓延し、先進国が共産主義化した低開発国によって包囲されてしまうのではないか―という恐怖感が存在してきた。
一時喧伝されたドミノ理論とは、1つの低開発国に共産化を許せば、これがゲリラ戦略によって周囲の国に伝染病のように広がり、周辺の国が次から次へ共産化してゆく ―という西側先進国の、特にアメリカの憂慮をほとんど戯画的な形でモデル化したものである。

 ではそもそも、低開発国にとって共産主義とは一体なんだったのだろうか

 外国からの援助を受けたかも知れないが、主に内発的理由から共産主義を採用した国々にとって、共産主義とはまず第一に、先進国の搾取なき経済であり、第二に民族の完全独立であり、第三に平等に貧困を分かち合う状態であった。
ソ連・中国をも含め、共産主義が現実に約束し、達成したことはこの三つであったと言える。

 民族の自立・自治を先進国の帝国主義政策に抗して勝ち取ること。
そして名目的な政治的独立ばかりでなく、経済的にも新植民地的搾取状態から脱して、独自の経済建設を進めること。
これが、カストロが、ホー・チミンが、毛沢東が掲げた目標であった。

 たとえ政治的・名目的に独立を勝ち得ても、現代の世界では南北間の経済構造のゆえに、先進国(北)は低開発国(南)に対して有利な形で交易を進め得る。
低開発国側は、農作物・自然資源等の一次産品を安価に提供するか、低賃金労働を先進国からの進出企業に売るしかない状況に追い込まれる。
こういった悲惨な状況から脱却しようとすれば、自ずと資本主義経済の国際的ネットワークから完全に離脱して自国の経済建設を考えてゆかざるを得ない。
かつては、政治的な完全独立さえ許されなかった。
やがて政治的には独立できても、経済的には従属構造に組み入れられることになった。
このような厳しい外部条件が存在したのである。
ここに、共産主義が1つの現実的選択肢として現れてきたのである。

 ヨーロッパ滞在時代のホー・チミンは、社会民主主義系統の第二インターと、より過激な第三インターのどちらに参加しようかと迷ったが、第三インターを選んでいる。
当時のホー・チミンにとって第二インターと第三インターの間の路線上の相違は理解も出来ないし興味もなかった。
彼が第三インターを選んだ理由は唯1つ、第三インターの方がベトナムのフランスからの独立をより明確に支持していたからである。

 カストロがキューバ革命を遂行中の時、彼は共産主義者だったわけではない。
カストロが目標にしていたのは、欧米、特にアメリカの植民地状況にある悲惨な祖国を救済し、そこに住む人々の暮らしを少しでもまともなものにすることであった。
そのために、彼はすべての合法的闘争手段の尽きた後、ゲリラ戦争という実力によって、腐敗の極致にあった、時のバチスタ政権を打倒したのである。
カストロは初めから反米であったわけでも、親ソ的共産主義者であったわけでもない。
キューバを反米・親ソの共産国に追いやったのは、主にアメリカの対応が誤まっていたためである。

アイゼンハワーからケネディーに替わった当時のアメリカは、キューバの国情に関する無知から、旧バチスタ政権の流れに属するような人々を支援し反革命を後押しした。
これがカストロの離反を決定的にし、キューバ・ミサイル危機は米ソ冷戦構造の中に、がっちりとキューバを組み込んでしまった。

 しかしそのキューバも、ソ連共産主義経済が破綻し、構造的デタントの流れが決定的となる中で、西側への経済開放に徐々に動きつつある。
ベトナムも、外資導入・開放政策・自由化の方向に大きく方向転換してきた。

 共産主義化した低開発国は確かに“平等に貧しい”状態には成り得た
しかしそこから先に進む事はできなかった。
しかし、80年代から90年代への新しい世界の状況は、共産主義化しなくても、政治的に自立し、資本主義経済圏にとどまったまま経済近代化を可能にするような客観情勢を作り出しているのである。
それゆえに、すでに共産化した国々も自由経済化・開放政策に向かい、共産化していない国々にとっては、共産主義的近代化の道はおよそ魅力の無い、ナンセンスなものになってきたのである。
民族主義者にとって共産主義は所詮借り物であった
今や共産主義という、お仕着せの貸衣装を脱ぐべき時が来たのである。

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※ 次回は、第4回連載の最終章、 【第5章、新たな世界経営に向けて】 に続く。 
  この企画の紹介論文は、4回に分けてご紹介させて頂きます。
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Cuba_FidelCastro_02.jpg
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【 第3回掲載分の 補足的解説 】

 この論文を書いてから4年か5年程後だったと記憶しているが、キューバを訪れる機会があった。
残念ながらカストロ首相に会う事は出来なかったが、第一副首相には会う事ができた。

 会見は少人数で一時間ほどであった。
私は前日、徹夜で書いたスペイン語のカストロ宛の手紙を持っていった
第一副首相にその手紙を渡し、カストロに必ず直接手渡してくれと頼んだ。
彼は、快く引き受けてくれた。

カストロが私の手紙を読んでくれたかは分からない。
その後、何の返事も彼からはもらっていない。
しかし、私の手紙はそもそもカストロから答えが来るような類の手紙ではなかった。

 私がその手紙で書いたのは、こういうことだ。

カストロは偉大な指導者であり、愛国者である事は確かである。
彼は、奴隷的な立場にあったキューバ国民を解放し、彼らに独立と自尊心を与えた。
カストロにとって共産主義はあくまで、自立を達成する為の方法であり、手段であったに過ぎない。

今、キューバ国民は誇り高く、自立した国民になった。
しかし、豊かになる事は出来ないでいる。
まして、ソ連邦が崩壊し、ソ連からの経済援助は無くなってしまった。
人々は、基本的な物資の欠乏に悩んでいる。

私はカストロに、今こそ、頑なな共産主義をやめ、市場経済を導入し、西側諸国とも大いに経済交流を始めるべきだと提案した。
政治的に完全な独立国家となった以上、以前のバチスタ政権下のような外国資本による搾取は最早不可能である。
共産主義は独立・自立の手段に過ぎなかったのだから、時代の変化に従って、その手段が無効になれば、それを投げ捨てて他のより有効な手段を採用すればよいではないか?

以上のような趣旨の手紙であった。


それ以降のキューバーの行き方を見ていると、ある程度の私有財産と市場経済の導入を行っており、私の手紙もまんざら無駄ではなかったのかもしれない、と思いたくなる。


又、ここでカストロとゲバラに関する非常に面白いエピソードを2つ紹介しておきたい。

カストロは昭和天皇が崩御された時、その死を悼み、キューバ国は一週間にわたって半旗を掲げた。 
この一週間というのは諸外国の中でも異例の長さであった。
そしてカストロは、おそらく何年かぶりに日本大使館を訪れ、駐キューバ日本大使と深夜まで昭和天皇の死を追悼し、懇談したのである。

カストロが英米と闘った昭和天皇を如何に尊敬していたかが、この一事をもってしてもよく分かる。

日本の左翼がおろかなのは、このようなカストロの「心情」を全く理解できない事である。
要は、民族の独立と民生の充実こそが政治の真の目的なのであり、共産主義イデオロギーなどは、二次的三次的な手段に過ぎないのである。

革命の大臣となったゲバラが日本訪問をした。
この折、彼は約2週間にわたって日本に滞在し、主に各種の工場を見学して回った
キューバの経済発展のためには、工業化がどうしても必要であり、その為には日本に大いに学ぶべきところがあると考えていたからである。
アメリカに敗戦したにもかかわらず、世界一流の工業力を発展させつつある日本にゲバラは大いなる感銘を受けたようであった。
このゲバラの「心情」も日本の左翼のおそらく全く理解できないところであろう。


最近、ゲバラの映画が日本で公開された。
ゲバラが直面していた現実とは、まさに論文の前の解説で述べたような南北問題の圧倒的な現実であった。
gebara.jpg
貧困と搾取は、本の中にではなく、現実の路上に溢れていた。
そのような視点からゲバラの映画も観なければならないと思う。

ゲバラ映画についての感想と批評はまた別の機会に譲りたい。