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「夜来風雨声 花落知多少(やらいふううのこえ はなおつることしるたしょう)」― メキシコより

投稿日:2010,09,02

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「夜来風雨声(やらいふううのこえ) 花落知多少(はなおつることしるたしょう)」


   春暁(しゅんぎょう) 

   春眠不覺暁 
   處處聞啼鳥 
   夜來風雨聲 
   花落知多少 

 
 丁度、『唐詩選』を繙いており、孟浩然の有名な「春暁」を読み終わったばかりの時に、似たような風情に遭遇した。

季節は初秋であり、場所はメキシコである。
しかし、この風情と「春暁」の詩の趣きは、極めて類似している。
漢詩の普遍性ということにも、思いを馳せた。

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 小さな庭だが、ブーゲンビリアが美しく咲き誇っている。
昨日は夕方から雷雨となって、風も随分、吹いた。
朝、目覚めると、花がどれほど散ったものか気にかかる。

 ブーゲンビリアの咲いている庭は、パティオ(中庭)を抜けた所にある。
母家からは直接見えないので、パティオのアーチ型の門を潜(くぐ)って自らの目で確かめに行った。

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 芝生の上一面に、ブーゲンビリアの花片(はなびら)が、目も鮮やかに散っている。
さ緑の絨緞の上に、真紅の花片が、ゆたかに散り敷かれている。

 惜しみなく、強(したた)かに散っている。

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 ブーゲンビリアの紅は、躑躅(つつじ)の赤をなお戦列にしたような色合いである。

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 【 朝芝や ブーゲンビリア一面に 散りて二色の 絨緞となる 】
                         厳喜 


 ブーゲンビリアはメキシコでは、四季咲いている花である。

七月・八月はメキシコでは雨期で、九月上旬にもよく雨は降る。
ただの雨ではない。
日本の夕立を数倍激しくしたような雷雨であり、豪雨である。
雷雨には時に雹が混じる。

以前、親指の頭ほどもある雹に降られて往生したことがある。


 扨、これ程、異なった環境でも、孟浩然の詩は感動を呼び起こす。
日本人なら「春暁」の詩が一番切々と感じられるのは、櫻が散る時期であろう。

散る花に、林檎や梨の花を連想する民族もあろう。

 鳥といい花というが、種類が特定されている訳ではない。
それ故、この詩は、春という季節から離れてすら、鑑賞が可能なのである。
(雨がほとんど降らないアフリカ・中東や中央アジアの乾燥地帯等を除けば、この詩は地球上多くの地域で観賞可能なのであろう。)

つまり、この詩には普遍性が備わっているという事である。
漢詩にはこのようにグローバルな「汎用性」があるものが結構、多い。

しかしここに、素晴らしさと同時に、問題も存在する。


 それは、自然描写が余りに抽象化されていることである。
それは唐代の孟浩然の詩において、そして李白や杜甫の詩においても、自然が既に抽象化された「モノ」として捉えられているという欠点である。

山といい、川といい、島といい、花といい、これらの言葉が、既にパターン化された記号としてしか機能していないのではないか。

つまり、自らの皮膚感覚で自然が捉えられていないという弱点なのである。


 さて、短所は短所として、しかし「春暁」が古今東西の名吟であることは認めなければなるまい。
この詩は五言絶句という形式で、五つの漢字が四行、つまり二十字の漢字だけで成り立っている。
題字を数えたとしても、たった二十二字である。
それで、これだけの内容が伝えられるのだから大したものである。

  これにはやはり、漢字の力の凄さを感じない訳にはいかない。
漢字の力の中でも、特にイメージを喚起する力の強さである。


 日本の俳句は十七文字で成り立っていて、世界最短の定型詩であると言われている。
五言絶句の二十文字は、恐らくこれに継ぐものであろう。


 この詩の意味は単純なようだが、最後の一行には少々解説が必要である。

「花落知多少」は、「花はどれ程散っただろうか(分からない)」であり、「花は多少は散っただろう」ではない。

大体、日本語の多少は少ない方に重点が置かれている。
漢語の多少とは意味が違う。


『唐詩選・上』(新訂中国古典選・朝日新聞社・高木正一解説)によれば、

――― 「知」の字、その下に疑問詞をともなう時は、ほとんどこれを反語によみ、結局は「不知」の意味になること、詩にはしばしば見うけられる誤報である。

――― 多少は、どれほどという意の疑問詞。

 だそうである。


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 「花落知多少」の訓読は、「花落つることの多少なるを知らんや」と反語風に読み下すのが適当なのであろう。
漢語は所詮外国語、漢字に引かれていい加減に解釈することは、厳に慎まねばならない。


「春暁」を俗な日本語に訳してみた。


  春の眠りは朝知らず
  鳥の啼く声ここあそこ
  ゆうべ聞こえた風と雨
  花はどれほど散ったやら


 君莫(レ)笑。

 君笑うこと莫(な)かれ。


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