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シリーズ 『共和制革命を狙う人々』 第4回 「天皇と国民を遠ざける連邦制論」

投稿日:2009,07,07

シリーズ『共和制革命を狙う人々―大統領制、道州制を推進する人々の陰謀と偽善のカラクリ』 第4回
 

第4回   「天皇と国民を遠ざける連邦制論」


 日本国の統合の象徴である天皇と国民の間に入ってきて、それを遠ざけようとしているのが地方主権論であり、その延長線上にある「道州制論」や「連邦制論」である。

 日本国民は、自らの統合の象徴として天皇を仰ぎ、天皇のもとの国民という感情によって、その一体感を実感してきた。
一人の天皇のもとに、代々統一されてきた日本国民であるとの自覚を持てば、日本国を統治する天皇のもとの一つの中央政府というイメージを当然に国民は抱くであろう。

天皇のもとに一つの中央政府が存在し、これが日本国民を差別なく平等に取り扱い、日本各地を一つの統一された基準によって統治するというイメージである。
これは、天皇のもとにおける中央集権政府を容易に存立せしめるであろう。

つまり、天皇のもとにおける平等な国民、という意識からは地方主権論などは生まれ難く、そして天皇のもとにおける強力な中央政府こそがその意識からは生まれてくることになる。





 明治維新に言う「維新」とはそもそも、何だろうか?

 たとえば、平成の御代における日本の真の革新を考える時、我々は明治維新にならい、平成維新という言葉を使いたくなる。
「維新」とは、国の存立の基盤に戻ることにより革新を行おうという革新的復古の思想であり、復古的革新の思想である。
そして、歴史的にみるならば、維新とは、天皇のもとにおける国民の平等をさらに進める事である。
 「大化の改新」において、「明治維新」において、日本国民は天皇のもとにおける平等な存在としての立場を獲得することが出来たのである。

 明治維新に関して言えば、封建的諸侯による幕藩体制という地方分権性から解放され、日本国民は天皇のもとにおける市民平等の存在となったのである。
藩という地方分権制と、士農工商という封建的身分制度から解放され、日本人は天皇のもとにおける平等な存在となることが出来たのである。

今日以降においても、日本におけるデモクラシーの原点は、天皇のもとにおける平等という思想であろう。
西洋において、キリスト教的「神」のもとにおける平等という思想が、近代の西洋のデモクラシーを推進してきたことと極めて類似している。

天皇のもとにおける平等な国民という一体感を阻害し、天皇と国民の間を遠ざける存在として、介入してくるのが「地方分権論」であり、「連邦制論」である。

「地方主権」によって成立するであろう、道や州は、「疑似独立国家」であり、それは同時に疑似共和制国家である。
道や州が独立性を強めれば、強めるほど、国民の一体感は薄れ、存在するのは一つの国民ではなく、それぞれの地方の地方人でしかないという傾向が強まる。

つまり、天皇のもとに一体をなしているという日本国民のアイデンティティーは、大きく損なわれてくるのである。
寧ろ、順番から言うならば、天皇を忘れさせ、天皇と国民を分断させる為にこそ「地方主権論」や連邦制論は導入されているかに見える。

「連邦制」それ自体が行政的に、日本国を分断するのはもちろんだが、より深いところでは、天皇と国民を引き離すことにより、日本国民としての一体性を破壊し、ゆくゆくは皇室を破壊することこそ地方主権論者の真の狙いなのであろう。

例えば、このシリーズの第2回目で取り上げた、「『地方主権の提唱』(1990年発表)」という提言書にしても、天皇については、一言も論じてはいない。
天皇を敢えて無視したという形跡が濃厚である。

考えれば、単純な話であろう。

天皇について論ずれば、天皇こそ歴史的な国民統合の象徴であるという事に誰でもが思い当たる。
そうすれば、地方主権論などというバカげた、日本国民を地理的に分断する発想などは生まれてこようがないのである。


 既に、言った事ではあるが、最後にもう一度、確認しておきたい。

それは、「大統領制」にしろ、「地方主権論(連邦制論、道州制論)」にしろ、これらはいずれも隠された「共和制革命論」であり、天皇制を転覆しようとする陰謀に他ならない。

 天皇のもとに団結した、平等な国民であるという日本におけるデモクラシーの唯一の原点を破壊しようというのが大統領制論や地方主権論であり、その事に日本国民ははやく気がつかなければならない。
 大統領制論や地方主権論は、皇室を破壊しようとするばかりでなく、日本国を破壊し、日本国における唯一のデモクラシーの存立基盤を破壊するものでもある。


 中央政府と地方自治体の権限の分割の仕方は時代の要請に従って様々に考えられてよいであろう。
 また、地方自治体も中央政府も含め、行政というものが、どれほどの権限を持つべきか?という事についても、時代の要請によって、柔軟に考えるべきであろう。
 国民自体の自治的能力が高まれば、行政府自体の仕事は減っていっても、一向に構わないのである。

  しかし、大統領制論や地方主権論は、こういったプラクティカルな現実論とは、その目的をまったく異にするものである。
 もっとも単純に言えば、大統領制論も地方主権論も、日本を解体するという隠れた目的をもった謀略である。

※ 次回はさらに、シリーズ 『共和制革命を狙う人々』 第5回 『地方の人々は本当に地方主権を望んでいるのか?』
に続く。